映画「沈黙ーサイレンスー」
映画「沈黙ーサイレンスー」を観ました。
'66年に出版された遠藤周作の「沈黙」はカトリックからの反発が強く、当時長崎では禁書扱いでした。そして50年後のいま映画「沈黙ーサイレンスー」の公開とともに長崎の書店では小説「沈黙」が平積みにされ遠藤周作コーナーもでき、「沈黙」は売れすじランキングNo1である。さらに、沈黙の舞台になった長崎の外海地区東出津町には遠藤周作文学館があり、遠藤は長崎とゆかりの深い作家です。
遠藤は中学生の時に洗礼を受けるが「合わない洋服を着せられた」という思いから「この洋服を脱ごうと幾度も思った」「この洋服を自分に合う和服にしよう」と言い、日本人でありながらキリスト教徒であることに苦悩し葛藤する。そして、「神の沈黙」という作家遠藤の永遠の主題に挑んだ小説が「沈黙」です。
ポルトガル人司祭ロドリゴは激しい拷問と執拗に棄教を迫る井上筑後の守の追求の末、罪の意識に苛まれながらも「転ぶ」 重く暗いトーンの映画の中で狡猾で執拗な井上筑後の守役を自分のキャラクターを生かし、演じたイッセー尾形が光った。イヤなヤツなのだが、笑いもとれてそこに明るさの救いがあった。スコセッシの演出の妙か?
そして、神が沈黙するなかロドリゴは元はキリスト教信者だった井上に救われたと僕は思った。命は救われたが、しかし・・・? 命を損なう極限、転ぶのは罪か?弱さゆえ転ぶのか?生きるために選択した強い決断ではないのか?
棄教したロドリゴは岡田三右衛門として日本で一生を終える。映画のラストシーンは原作には描かれていないが、ここにスコセッシのメッセージが込められているし、遠藤も同じ思いだったかもしれないと思うのです。
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